今月は、10月にある長崎くんちの年番町としての参加準備や、次女の学校行事、イベント司会などが重なり、通常よりご葬儀の司会をお受けできる日が少ないのですが、そんな中、心に残った出来事がありましたので、ブログに残したいと思います。
先日の故人様はご長寿の男性。お通夜の開式1時間以上前から多くの弔問者が来場され、また豪華な生花スタンドも次々と式場に運ばれ、人望厚いお方だったことが伺えました。お忙しい合間を縫って、喪主様始めご遺族の皆様方には、生前の故人様の取材をさせていただき大変感謝しております。とは言え、あまりの弔問者の数に十分な取材はできず、お聴き取りできた内容や式場内のメモリアルコーナーに設置されたお写真や表彰状の情報を元に、その夜、翌日の告別式で読むナレーションを作ることになりました。
島原半島でお生れになった故人様は、進学を機に長崎市へ。メモリアルコーナーには『長崎工業学校 応用化学科●回生』と記された同窓会らしきお写真がありましたので、帰宅してインターネットで調べてみましたら、それは、長崎が誇る大スター・福山雅治氏の母校として有名な 県立長崎工業高校の前身となる学校で昭和12年に開校し、その●回生ということで数えてみると、故人様は12歳で親元を離れ進学なさったことがわかりました。現在の校舎は、市の北部・岩屋町にありますが、故人様がご入学なさった頃は原爆投下の爆心地のすぐ近く上野町に校舎があったことも、現在の高校のホームページで判明。昭和20年8月9日の原爆投下により、校舎は全部焼失、教職員・生徒合わせて200名以上が亡くなったとの記載もありました。
爆心地から近い上野町一帯はすごい状況だっただろうに、故人様はどうして生き長らえたのだろう。原爆の時のことをもう少しお聴きしたいと思った私は、その部分だけを空白にしたナレーションを作成し、翌日、告別式開式前に通常よりも早めに斎場に入って、内容の確認をご遺族様に行いました。すると、奥様が昔、故人様から聞いたエピソードを話してくださいました。当時は、国内の主要な軍需工場にも長崎工業学校の学生さん達が動員派遣されていたそうで、故人様も九州内の他県の工場に派遣されていて、一命を取り留めたとのこと。同じ境遇の応用化学科のご同窓の皆さんとは、強い絆で結ばれ 生涯にわたる友情を育まれたそうです。故人様が当時、そのまま長崎にいたら、今目の前にいらっしゃるお子様方も、お孫様やひ孫様方もこの世に存在しなかったわけで、改めて、普通に生きていくこと、天寿を全うすることは、特別な事なのだと感じました。
お伺いした内容をその場で書き足し、ご遺族の皆様方から文面の了解もいただいて、すぐにBGMとの調整。ナレーションはBGMの時間内にもきちんと収まり、ご会葬いただいた多くの皆様に、故人様のヒストリーを無事ご紹介することができました。
沢山のお花と参列者に囲まれて旅立った故人様のご冥福を、心よりお祈りいたします。